大阪万博関連でも話題のオーストリア料理、ターフェルシュピッツ。根菜類と香辛料を加えた風味豊かなブロスでじっくりと煮込まれたこの牛肉料理はハプスブルクの皇帝も愛した国民食であり、今もウィーンの食卓に欠かせないものです。
シンプルでありながら深い味わいに豊かな歴史を持つ、このターフェルシュピッツの魅力を今回は探っていきましょう。
ターフェルシュピッツの基本と歴史
ターフェルシュピッツはオーストリアの国民食であり、特に首都のウィーン料理を代表する一品です。
名前の由来はなかなか斬新です。
ターフェルのシュピッツ、つまり食卓の先端(または角)という意味で、使用される牛肉の特定部位と食卓で中心的な位置を占めることの両方を表すものです。
この料理の本質はシンプルさにあります。
良質な牛肉または子牛肉を根菜と香辛料で煮込むだけの料理ですが、その過程と伝統によって特別な存在となっています。一見すると単純な煮込み料理ですがオーストリア人にとっては誇りの源であり、食文化のアイデンティティを象徴する料理なのです。
皇帝に愛された国民食
ターフェルシュピッツの名声はオーストリア=ハンガリー帝国を統治したフランツ・ヨーゼフ1世(1830-1916)との深い関わりによって確立されました。質素な食の好みで知られていた皇帝はこのシンプルな煮込み料理を特に好み、ほぼ毎日の夕食に食べていたと伝えられています。
宮廷の公式な食事ではこの料理はフランス語で「bouilli(ブイヨン)」と記載されていました。当時の宮廷料理はフランス料理の影響を強く受けていたため、フランス語の献立表が使われていたのですね。皇帝のお気に入りという事実によって本来は庶民的な煮込み肉が一気に高級料理の地位を獲得しました。
「わたしの祖母でもこれより上手く作れないよ」と皇帝が言ったという言い伝えもあるほど、彼のターフェルシュピッツへの愛情は有名でした。
皇帝が毎日同じ料理を食べたという事実は彼の質素な生活習慣の表れでもありましたが、それによってこの料理はオーストリア料理の象徴として不動の地位を確立したのです。
伝統的な調理法と肉の選び方
理想的な肉の部位
ターフェルシュピッツに使われる肉は料理の成功を左右する重要な要素です。伝統的には牛の特定部位を指します。
牛の臀部の平らな端で、尾に向かって先細りになっている部分が最も適しています
この部位は中程度から長い繊維質の食感を持ち、じっくり煮込むことで柔らかくなります
オーストリアでは牛肉は世界のどこよりも多くの部位に分類される伝統があり、これはオーストリア=ハンガリー君主国時代からの遺産です
日本やアメリカでターフェルシュピッツを作る場合はトライチップ、ボトムラウンド、サーロイン、またはランプロースト(もも肉)などの部位で代用できます。重要なのは適度な脂肪と繊維がある肉を選ぶことです。
ウィーンの伝統的な肉屋では「ターフェルシュピッツ用の肉をください」と言えば最適な部位を提供してくれます。肉選びに迷ったら信頼できる肉屋さんに相談するのが一番でしょう。
本格的な調理過程
ターフェルシュピッツの調理は時間をかけた丁寧なプロセスです。伝統的な方法は以下のステップで構成されています。
初期準備。
牛肉(約2kg)はぬるま湯で軽く洗い、血の残りを取り除きます
風味と栄養価を高めるために骨髄を加えることが多いです
玉ねぎを半分に切り、乾いたフライパンで焦げ目がつくまで焼きます。この焦がした玉ねぎがブロスに深い味わいと色合いを加えます
ゆっくりと煮込む。
肉を冷水から始め、胡椒の実と焦がした玉ねぎを加えます
一度沸騰させた後は決して沸騰させないよう弱火で煮込みます
調理の間、定期的に表面に浮かぶ泡やアクをていねいに取り除きます
肉の水分を保つため、最初の段階では塩を入れません
野菜の追加。
にんじん、かぶ、パースニップ、セロリアック(根セロリ)、リーキなどの根菜類を、肉が出来上がる約30分前に追加します
一般的に使われるスパイスにはローリエの葉、胡椒の実、オールスパイス、ジュニパーベリーがあります
仕上げ。
総調理時間は肉の大きさと品質によって2〜3.5時間かかります
フォークが簡単に刺さるようになったら肉の調理は完了です
肉の水分を逃がさないよう、調理の最後にのみ塩を加えます
オーストリアの家庭ではこの料理は日曜日の特別な食事として作られることが多く、家族が集まる機会に提供されます。時間をかけて煮込む過程は家族の集いの象徴ともなっているのです。
ターフェルシュピッツを彩る付け合わせ
伝統的なソース
ターフェルシュピッツには特徴的なソースがいくつか添えられ、それぞれが肉の風味を引き立てる重要な役割を果たします。
リンゴ西洋わさびソース(アプフェルクレン)。
すりおろした新鮮な西洋わさびと刻んだリンゴを混ぜたものです
肉の濃厚な味わいに甘くてスパイシーな対比を提供します
西洋わさびは生のままですりおろして使うため、鼻に抜ける辛さが特徴的です
リンゴの甘さが辛さを和らげバランスの取れた味わいになります
チャイブソース(シュニットラウフソース)。
サワークリームと細かく刻んだチャイブ(西洋ねぎ)を混ぜたシンプルなソースです
クリーミーでハーブの効いた風味が肉の旨味を引き立てます
家庭によっては少量のレモン汁や白ワインビネガーを加えることもあります
卵とマスタードのホワイトソース。
卵黄とマスタードを組み合わせた濃厚なソースです
ベルベットのような滑らかな食感と、わずかな酸味を加えます
このソースは煮込み料理の肉に潤いを与え、風味を豊かにします
これらのソースは別々の小鉢に盛られ、好みに応じて肉につけて食べるのが一般的です。多くのウィーンの家庭ではソースの作り方に家伝のレシピがあり、代々受け継がれています。
欠かせないサイドディッシュ
ターフェルシュピッツの食事体験を完成させるには、いくつかの伝統的なサイドディッシュが欠かせません。
レスティポテト。
すりおろしたジャガイモをカリカリに焼き上げたもので、ハッシュブラウンに似ています
外はカリッと、中はふんわりした食感が特徴です
時には「カルトッフェルシュマーン」として提供されることもあり、これは千切りにしたジャガイモのパンケーキです
クリームほうれん草(ラームシュピナート)。
バターとクリームで調理したほうれん草のピューレです
滑らかな食感と優しい風味が牛肉と見事に調和します
ほうれん草の苦味がターフェルシュピッツの味わいを引き立て、栄養バランスも整えます
ブロス(だし汁)。
肉を煮込んだだし汁はまず最初にスープとして提供されます
このスープには薄切りのパンケーキ(フリタテン)、セモリナ団子、または麺が入っていることが多いです
仕上げに刻んだチャイブを散らして風味と彩りを添えます
骨髄。
煮込みに使った骨から取り出した骨髄は特別な珍味として提供されます
トーストした黒パンに塗って、塩とコショウで味付けして食べます
「リッパルスープ」と呼ばれることもあるこの料理法は、動物を余すところなく活用するオーストリア料理の哲学を体現しています
これらの付け合わせは煮込んだシンプルな肉料理に変化と深みを加え、一連の料理としての完成度を高めています。
食事の作法と現代における位置づけ
伝統的な食べ方とエチケット
ターフェルシュピッツは単なる一皿の料理ではなく、複数のコースから成る食事体験です。伝統的なオーストリアのレストランでは特定の順序で提供されます。
まず牛肉のブロスが澄んだスープとして出されます。このスープにはフリタテン(薄いパンケーキの細切り)や団子が入っていることが多いです。
次に骨髄が提供され、これを黒パンに塗って塩とコショウで味付けして食べます。骨髄はしばしば特別な骨髄スプーンで取り出します。
最後にメインディッシュとして肉が登場します。肉は繊維に対して垂直に薄くスライスされ、根菜、ソース、付け合わせと共に盛り付けられます。
ウィーンの有名レストラン「プラフッタ」などでは給仕がこの多段階の食事の正しい楽しみ方を実演してくれることもあります。初めての人でも安心して本格的な食べ方を体験できるよう配慮されているんですね。
「最初にスープ、次に骨髄、最後に肉」というこの順序は素材を最大限に活用し、味わいの変化を楽しむオーストリア料理の知恵が詰まっています。
ターフェルシュピッツの栄養と文化的意義
栄養価とヘルシーな側面
ターフェルシュピッツは文化的価値だけでなく栄養面でも優れた料理です。
高タンパク質:牛肉からの良質なタンパク質(1食あたり約65g)を摂取できます。筋肉の修復や維持に重要な栄養素です。
必須ビタミンとミネラル:肉と野菜の組み合わせから、鉄分、亜鉛、カリウム、ビタミンCなどが豊富に摂取できます。特に鉄分は貧血予防に役立ちます。
良質な脂肪:特に良質な牛肉部位で調理した場合、体に必要な脂肪酸も含まれています。骨髄に含まれる脂肪は実は昔から「自然の栄養剤」として珍重されてきました。
バランスの取れた一皿:肉、野菜、スープを一度に摂取できるため、栄養バランスに優れた食事となります。
CheckYourFoodによるとターフェルシュピッツは推奨される1日の摂取量の20%以上の13種類の栄養素を提供しており、栄養密度の高い食事といえます。カロリーは1食あたり約1384カロリーですがこれは提供量と付け合わせによって変わります。
またゆっくりと煮込む調理法は肉のタンパク質をより消化しやすい形に変え、骨からはカルシウムなどのミネラルがブロスに溶け出すため、栄養面でも理にかなった調理法なのです。
オーストリア文化における象徴性
ターフェルシュピッツはオーストリア文化において単なる料理以上の意味を持っています。
この料理は動物への敬意と肉の部位に関する深い知識によって特徴づけられるウィーンの牛肉料理へのアプローチを象徴しています。「鼻から尻尾まで」使い切るという考え方が根底にあります。
オーストリアの帝国の歴史とハプスブルク家の料理伝統の継続的な影響を反映しています。かつて多民族国家だったオーストリア=ハンガリー帝国の多様な食文化がこの一皿に凝縮されているといえるでしょう。
古き良き時代への郷愁を呼び起こす料理としてオーストリア人のアイデンティティと深く結びついています。多くのウィーン市民にとってターフェルシュピッツの香りは子供時代の思い出と結びついています。
国民的誇りの源として外国人観光客に必須のオーストリア料理体験として紹介されることが多いです。「ターフェルシュピッツを食べずしてウィーンを訪れたとは言えない」というほど象徴的な料理なのです。
ウィーン料理の研究者ロバート・ゼートハラーによれば「ターフェルシュピッツはオーストリアのアイデンティティそのものであり、国の歴史、多様性、そして伝統への敬意を一皿に表現している」といいます。
Q&A:ターフェルシュピッツについてよくある質問
ターフェルシュピッツに最適な肉の部位がない場合、どのような代替品が使えますか?
最も近い代替品はもも肉(ランプ)またはサーロインの一部です。
重要なのは少し脂肪があり、煮込みに適した部位を選ぶことです。日本では「すね肉」も代用として使えますが、その場合は煮込み時間を少し長めにする必要があるでしょう。肉屋さんに「煮込み用の塊肉」と伝えれば適切なアドバイスがもらえるはずです。
家庭でターフェルシュピッツを作る際の最大のポイントは何ですか?
最も重要なのは焦らないことです。ターフェルシュピッツの美味しさはゆっくりとした煮込み過程から生まれます。
決して沸騰させず、アクをこまめに取り除き、塩は調理の最後に加えるのがポイントです。また良質な肉を選ぶことも成功の鍵です。時間をかけて作ることでシンプルな材料から驚くほど深い味わいが生まれます。
ターフェルシュピッツは前日に作っても大丈夫ですか?
むしろ前日に作って冷蔵庫で一晩置くことで味がなじんでより美味しくなるという人も多いです。再加熱する際は肉を薄くスライスしてからブロスで優しく温めると乾燥を防げます。ブロス(スープ)、ソース、付け合わせは別々に保存し、食べる直前に組み合わせるのがベストです。骨髄を使う場合は当日取り分けておくと風味が落ちません。
ウィーン以外でも本格的なターフェルシュピッツが食べられる場所はある?
ウィーン以外のオーストリアの主要都市(ザルツブルグ、グラーツなど)の伝統的なレストランでも本格的なターフェルシュピッツが楽しめます。
またドイツ南部やハンガリーの一部地域では地元のバリエーションを提供するレストランもあります。
本場の味を楽しめる場所と家庭での再現方法
ウィーンの名店で味わう
ウィーンでターフェルシュピッツといえばまず名前が挙がるのが市内中心部のWollzeileにある「プラフッタ(Plachutta)」です。この店はウィーンの牛肉文化を守り発展させることを使命としており、彼らのターフェルシュピッツは品質の基準とされています。
プラフッタではターフェルシュピッツの由来から正しい食べ方まで、料理の文化的背景も含めた体験を提供しています。ちなみにここではブロスからデザートまでを含むフルコースで提供されることが多く、一人前でもかなりのボリュームがあるので要注意です。
その他にもターフェルシュピッツを堪能できる名店としては。
レストラン・ザッハー:有名なザッハートルテで知られるホテル・ザッハーに隣接するレストランで、伝統的な味を守りながらも洗練された雰囲気の中で楽しめます。
マイスル&シャーデン:アットホームな雰囲気の中で、地元の人々に愛される正統派のターフェルシュピッツを提供しています。
ガストハウス・ウブル:観光地から少し離れた場所にある地元民に人気の店で、よりリーズナブルな価格で本格的な味を楽しめます。
これらの店では予約をすることをお勧めします。特に夕食時は混雑することが多いので余裕を持って計画を立てるとよいでしょう。
家庭で作るための秘訣
本場のターフェルシュピッツを家庭で再現するためのポイントをまとめました。
材料の品質にこだわる。
可能な限り最高品質の牛肉を使用しましょう
脂肪のマーブリングが適度にあるものが理想的です
新鮮な根菜とハーブが風味豊かなブロスには欠かせません
調理の基本を押さえる。
低温でじっくり煮込む過程は急ぐことができません
始めから終わりまで3〜4時間の時間を見込みましょう
肉は冷水から始め、一度沸騰させた後は弱火を保ちます
アクと脂をこまめに取り除くと透明で美しいブロスができます
切り方と盛り付けにも気を配る。
肉は必ず繊維に対して垂直に切ります(これが柔らかく感じるコツです)
伝統的な順序(スープ→骨髄→肉)で提供しましょう
各種ソースは別々の小鉢に盛ります
伝統的な付け合わせを揃える。
レスティポテト、クリームほうれん草、それに3種類のソースがあれば完璧です
これらがすべて揃わなくても自分好みのアレンジで楽しむのも一つの方法です
家庭で作る際にはすべてを伝統的な方法で揃えるのは大変かもしれませんが、牛肉をじっくり煮込む基本さえ押さえれば、あとは家族の好みに合わせてアレンジしても良いでしょう。何よりゆっくり時間をかけて調理する過程を楽しむことがこの料理の本質ともいえます。
まとめ
ターフェルシュピッツはオーストリアの食文化の精髄を体現した料理です。
皇帝にも愛されたシンプルな煮込み牛肉が丁寧な技術と伝統によって料理の芸術へと昇華された歴史は食文化がいかに国のアイデンティティと結びつくかを物語っています。
その素朴な起源から皇帝の推薦を経て現代まで、ターフェルシュピッツは材料への敬意と文化的伝統の保存を重視するオーストリア料理といえます。複数のコースから成る食事体験と様々な付け合わせやソースの組み合わせはシンプルな料理からも豊かな味わいを引き出すオーストリア料理の知恵が詰まっています。